目 次
(1)『延喜式』における「諸国貢進菓子」
(2)文学作品にみえる「加工菓子」
(3)唐菓子
(4)まとめ
(5)註
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古い時代の「菓子」といわれると、どのようなものを思い浮かべるでしょうか?おそらくは現在のおやつ類にもっとも近い、米粉や小麦粉で作った「唐菓子」(からがし・からくだもの)のような加工菓子が先に思い出されるでしょう。しかし平安時代においても、史料上の「菓子」という言葉は、奈良時代と同じく果物などを意味して使われることが多かったようです。【参照→奈良の都で食された菓子】
例えば、平安初期の『延喜式』(註1)巻三十三・大膳下には、「諸国貢進菓子」として、国ごとに納入するべき菓子の詳細が定められています。その全品目を表にあげてみました。
菓子名 | 貢進した国 | 説明 |
---|---|---|
楊梅子(やまもも) | 山城・大和・河内・摂津・和泉 | 果実は多数の突起があり、暗紅紫色に熟したものを食べる |
平栗子(ひらぐり) | 山城・丹波・因幡 | 栗を蒸して粉にした加工品 |
甘栗子(あまぐり) | 丹波 | 栗を石焼きにした後、甘みをつけたもの |
搗栗子(かちぐり) | 丹波・但馬・播磨・美作 | 乾燥させて皮をとった栗 |
榛子(はしばみ) | 大和 | ヘーゼルナッツ(セイヨウハシバミ)の近縁種 |
椎子(しいのみ) | 伊勢・越前・丹波・因幡 播磨・阿波・河内・摂津 | ブナ科でドングリに近いものか |
花橘子(たちばな) | 河内・摂津 | ミカンより小ぶりで酸味のある柑橘類 |
木蓮子(いたび) | 河内・筑前・壱岐 | 別名イヌビワ |
柑子(こうじ) | 遠江・駿河・相模・因幡 | 現在のミカンの原形 |
梨子(なし) | 因幡 | ヤマナシのこと |
青梨(あおなし) | 甲斐 | 現在の20世紀のような、皮が青味がかった品種 |
干棗(ほしなつめ) | 因幡 | 中国原産で、生薬、韓国料理にもつかわれる |
諸成(ぐみ) | 備中 | 赤く小さい液果 |
郁子(むべ) | 山城・近江 | アケビによく似た、種の多い果実 |
蔔子(あけび) | 山城・大和・河内・摂津 | 果実は楕円形で熟すと割れる |
覆盆子(いちご) | 山城・河内・摂津 | 現在ノイチゴ・木イチゴなどと呼ばれているもの |
薯蕷子(むかご) | 越前 | ヤマノイモの葉の付け根にできた、茎の一部が肥大化したもの |
菱子(ひしのみ) | 丹後 | 湖沼の水草にできる、菱形の種子 |
薯蕷(やまのいも) | 越前 | 現在のヤマイモ、もしくはナガイモ |
蓮根(はすね) | 河内 | レンコン |
甘葛煎(あまづらせん) | 伊賀・遠江・駿河・伊豆・出羽・越前 加賀・能登・越中・越後・丹波 丹後・但馬・因幡・出雲・美作 備前・備中・紀伊・阿波・大宰府 | ツタの抽出液を水飴状に煮詰めた、古代の甘味料 |
これらが、『延喜式』で「菓子」の中身として考えられていた食べ物です。この時代すでに、その地方ごとの特産物ともいうべき農産物があったことがわかります。中には河内(今の大阪府の一部)における蓮根のように今でも特産品として残っているものあれば、郁子(ムベ)のように、今では一般的でなくなってしまった食べ物もあります。
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ここから分かるように、平安時代において「菓子」とは、果実類、甘葛煎など、おもに穀類を使用しない甘味類、間食類を指していたのです。これとは別に「唐菓子」の語も『延喜式』の中には見え、その材料として甘酒を用いたとの情報がありますが、いつ、どのように食べたのか、詳細は一切かかれていません。
現在のように「菓子」という言葉が果物をまったく含まなくなるのは、はっきりとは分からないのですが、江戸時代中期になってからとも言われています。一方で現在の「菓子」と同じような加工菓子も確実に存在していました。しかしそれらを総称する語があったかどうかは明確ではありまん。
それでは「菓子」という言葉では表現されないものの、当時間食として用いられた食べ物はどのようなものだったでしょうか。ここでは、平安時代の主要な文学作品の中から、宴席や特定の行事と結びつかずに登場する加工菓子の例を表にあげてみます。
作品名 | 章・段 | 加工菓子の名称 | 説明 |
---|---|---|---|
『土佐日記』 | 2月16日 | まがり | 米粉の生地をねじった形に成形した揚げ菓子 |
『宇津保物語』 | 吹上・上 | からくだもの(唐菓物) | 唐菓子のこと |
『枕草子』 | 第42段 | 削り氷(ひ)にあまづら | 砕いた氷に甘葛煎をかけたもの |
第87段 | ひろき餅 | のし餅のようなものと考えられている | |
第133段 | 餅餤(へいだん) | 調理した野菜・卵を餅で包んだもの | |
第239段 | 青ざし | 未熟な麦を煎り、中身を挽いてから糸のように練ったもの | |
『源氏物語』 | 若菜・上 | 椿餅(つばいもち) | 甘葛煎で甘みを付けた餅を椿の葉に包んで供したもの |
宿木(やどりぎ) | 粉熟(ふずく) | 米・豆・胡麻などの粉に甘葛煎をあわせ、丸く成形したもの | |
『今昔物語集』 | 巻19・第22 | 麦縄(むぎなわ) | 米粉・小麦粉・塩で作る生地を縄の形に成形した揚げ菓子 |
『宇治拾遺物語 | 巻1・12 | かいもち | 牡丹餅に近い、飯で作る餅 |
巻1・18 | 薯蕷粥(いもがゆ) | 甘葛煎を薄めた汁で、ヤマイモを軽く煮たもの | |
巻4・1 | しとぎ | 米粉をこねて蒸し、団子のようにしたもの |
表からは、文学作品中でもさまざまな加工菓子が食べられていたことが分かります。この他、『延喜式』巻四十二・東西市司という京内の市に関する規則では、索餅(さくへい・さくべい)という揚げ菓子の専門店が存在したことがみられます。このように、儀礼・行事の中だけではなく、幅広い階層が日常的に「加工菓子」を食していたといえるのです。
唐菓子は古代の代表的な加工菓子であるとよくいわれます。一般的には、唐菓子は米粉または小麦粉を練り、造形したものを油で揚げた、中国伝来のお菓子として認識されているのではないでしょうか。
しかし実際には、唐菓子は史料も少なく、謎の多い食べ物でもあります。その定義も明確になっておらず、「奈良平安時代に作られた加工菓子の総称」(註2)、または「行事食に使用する慣習の固定したもののみについて有職故実上の用語として「唐」菓子が使用されることになった」(註3)と、数ある「加工菓子」の中でどれを唐菓子と称するべきか、研究者の間でも定まっていないのです。需要についても、多くの人々に親しまれていたと見る意見(註4)も、反対する意見(註5) もあります。
ここでは主に平安時代の状況を示すとされる史料に基づき、当時の唐菓子がどのようなものであったか考えてみることにします。承平(931〜938)年間に成立した『倭名類聚抄』(註6)には、加工菓子の名称が二十数個みられます。そのうち歓喜団(かんきだん)という菓子の説明の一部として、以下のような記述があります。
引用文中の「団喜」は、歓喜団の別名です。このように8種類の食品が「八種唐菓子」として特に重要視されていたようですが、その他の食品については唐菓子であったという記述はみられません。『倭名類聚抄』における八種唐菓子の組み合わせは、院政期における摂関家の儀礼を定めた『執政所抄』(註7)や、儀式における食事について書いた『厨事類記』(註8)にも受け継がれています。そのため平安時代から鎌倉時代にいたるまで、唐菓子は公家の儀式や宴席のなかで用いられていたようだと思われます。
また、『厨事類記』には、米粉を練り、油で揚げるという唐菓子の製造方法が詳細に記述されています。似たような加工菓子である「ブト」や「サクヘイ」の製法が「ツネノゴト」とのみ説明されているのに対し、唐菓子の製法については詳細な説明がなされています。このことは、「唐菓子」と呼ばれる菓子を日常において作る機会が少なかった可能性を示しています。つまり「八種唐菓子」と呼ばれているものは儀式など限られた機会にのみ作られ、人々の日常生活に用いられることはほとんどなかったと考えられるのです。
なお、現在なんらかの形で残っている八種唐菓子としては、春日大社(奈良市)の神饌にある梅枝、亀屋清永(京都市)にて製造され、「歓喜団」と同じものといわれる清浄歓喜団があります。また、別のページで取り上げられているような「ブト」も、唐菓子であったという記述は見られないのですが、春日大社で作られ続けている古代の揚げ菓子です。いずれも寺社の儀式の中で供物として使われ、残ってきたものばかりです。しかしその他ものもは近世までにほぼ廃れてしまったようであり、詳しい製法・形状がはっきり分からなくなってしまったものもあります。
清浄歓喜団の断面
米粉を練って造型し、油で揚げた「ぶと」のような唐菓子こそが、古代の代表的な菓子として考えられてきました。しかし文学作品などからも見られるように、実際の当時の間食は、果物類を含めて多様な食べ物が用いられ、「唐菓子」と呼ぶ食べ物を食する機会は少なかったのではないかとも考えられます。「唐菓子」という言葉もまた、当時の史料上では唐菓子とそれ以外の菓子は明確に区別されており、古代の「加工菓子」の総称としてとらえることはできません。
では大陸にルーツを持ちつつも、伝来時期あるいは用いられ方により「八種唐菓子」に含まれなかった「加工菓子」は、何と呼ばれていたのでしょうか。『厨事類記』に「唐菓子」と並び称されている「粉餅」に当たるのではないか、という見方もあり、『執政所抄』にも「唐菓子」と「粉餅」という違った種類の菓子の名前が出てきています。しかし「粉餅」がどのような食べ物であったのも、またよくわからないので、断定は難しいところです。しかし「唐菓子」として用いられていた菓子と、そうでない菓子が存在していたことは確かでしょう。「唐菓子」という言葉は、現在の「和菓子」「洋菓子」といった材料や製法による菓子の名称とは違った少し異なった発想の名前であり、儀式に用いられた特定の菓子をさす言葉であったのではないでしょうか。
また、重要な儀礼や宴席で使われるような菓子が「唐菓子」と呼ばれていたことは、ただ「唐風」、日本風でない菓子であったというだけでなく、貴重な舶来品である「唐物」というニュアンスを持つと思われます。平安時代の文化は「国風文化」とよく言われますが、実際には「唐物」として、中国伝来の織物や調度品が貴族に愛用されてていたことが最近明らかになりつつあります。食生活の面からも同じことがいえるのかもしれません。
同様なことは、中世の日本でも起こっていました。だれもがおなじみの和菓子で、奈良ともゆかりの深い、あの饅頭がよい例なのです。【奈良饅頭のページへ】
史料出典